HEROの○○な日記
 
天剣絶倒
 


2006年2月19日を表示

(。・O・。)ウホホーイ

すっげぇ
テンション マジ高ぇ!!

夜中1時から
ずっと起きてるぜぇい!!


キタ━━━━ヽ(゚∀゚ )ノ━━━━!!!!
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!
キタ━━━(゚∀゚)━( ゚∀)━━(∀゚ )━(゚∀゚)━━━!!

ズサ━━━━⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡━━━━!!

月曜の授業まで
このテンションを
保てたら  ネ申..._〆(゚▽゚*)



2月19日(日)07:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | (゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚) | 管理

呂布 奉先

呂布(りょふ、ピンイン:Lǔ Bù 生年不詳 - 198年)は後漢末期の武将、群雄。字は奉先。五原郡九原県(今で言う内蒙古自治区内)の産まれ。戦乱の後漢末期にあって、その武勇を誇った。

『三国志』によると、はじめ河内に并州刺史として駐屯していた丁原に主簿として仕え、重用された。189年、霊帝死亡後の混乱の中で丁原とともに首都洛陽に入るが、中央の権力獲得を図る董卓の誘いに乗って主君丁原を殺害し、董卓に仕えた。董卓は呂布を非常に信頼し、養子とした。官爵は董卓によって騎都尉に任ぜられ、まもなく中郎将に累進し、都亭侯に封じられた。

呂布は腕力が常人よりもはるかに強く、弓術・馬術にも秀でていたために飛将と呼ばれた。『三国志』の注に引かれている『曹瞞伝』(これ自体は散逸)によると、彼の乗馬「赤兎馬」とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。絶大な権力を握った董卓は傍若無人な振る舞いを行って多くの人の悪意を買ったが、傍らに呂布がいたために誰も手が出せなかった。しかし、ある時気の短い董卓は一時の怒りから呂布に手戟(小さな剣)を投げつけたが体術に優れていた呂布は見事にかわした。それ以来呂布は董卓に不満を持つようになった。さらに呂布は董卓の侍女(三国志演義では司徒王允の養女貂蝉)と密通し、その露顕を恐れていた。

この両者の隙を図り、暴虐の限りを尽くしている董卓の抹殺を目論む王允が呂布にその実行を唆し、192年、呂布は手ずから董卓を殺害した。しかし董卓の軍事力の基礎であった郭汜、李傕ら涼州の軍勢が復讐の名の下に首都長安(董卓によって洛陽から遷都)に侵入、呂布はしばらく応戦するものの支えきれず、数百騎とともに武関から逃亡した。

その後呂布は袁術を頼ろうとするが、拒否された。さらに張燕ら黒山賊と戦う河北の袁紹に助太刀した。呂布の軍は強く、精強を誇った黒山賊を撃破した。しかし呂布はその後袁紹に兵力の補充を要求し、彼の引き連れる兵も略奪などを行った。これが袁紹の忌むところとなり、呂布もそれを察して彼の下を離れた。さらに袁紹は彼に刺客を送るが、これは失敗した。呂布は河内の張揚を頼ったが、呂布を恐れる袁紹が大軍を出して駆逐し、他の勢力も呂布を畏怖して保護しようとはしなかった。

そういった逃亡の中で、ある日呂布は陳留を通過し、曹操の旧友であり、信頼の厚い太守張邈に厚くもてなされた。まもなく張邈は時の権力者袁紹がお尋ね者とする呂布を歓待したことで、袁紹の命令の下曹操に攻撃されることを恐れた。さらに曹操の部下でありながら彼に不満を持つ陳宮に説得され、呂布を盟主として兗州刺史とし、曹操に反旗を翻した。蝗害に苦しみつつも2年以上にわたって両軍は激しく戦うが、ついに呂布は曹操に敗れ、徐州の劉備を頼って落ち延びた。ところが劉備が袁術と戦っている隙に本拠下邳を奪い取り、徐州の刺史を自称した。あべこべに劉備が呂布に従うはめとなり、小沛に駐屯した。

その後袁術が呂布に婚姻を持ちかけ、呂布もこれをうけようとしたが、沛国の相である陳珪がこの二人が連携することにより後漢末の騒乱がさらに深まることを恐れ、呂布にもちかけて縁談を破談させ、曹操と連携させた。怒った袁術は呂布に大軍を差し向けるが、陳珪の離間の計により袁術軍は混乱し、そこを突いた呂布軍により大敗した。一方で陳珪は息子登を首都許昌(曹操によって遷都)に遣わし、呂布に左将軍の官位を与えて有頂天にさせるとともに、皇帝を擁して急速に勢力を強大化しつつあった曹操に呂布を討つようそそのかした。

建安3年(198年)、呂布は再び袁術につき、小沛の劉備を攻撃した。曹操は夏侯惇を援軍に送ったが、呂布の部下高順に敗れた。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。呂布は勇猛であったもののはかりごとがなく猜疑心が深く、部下の諸将を統御できず、連戦連敗となり、下邳城に追い詰められた。包囲3ヶ月、冬季に水攻めにあって呂布軍の士気は阻喪し、ついに将軍の侯成・宋憲・魏続が反乱を起こし、呂布と陳宮を捕縛して曹操に突き出した。呂布は、陳宮・高順とともに処刑され、首は晒された。

三国最強の武神
(・∀・)チゴイネ!



2月19日(日)02:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | (゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚) | 管理

張遼

張遼(ちょうりょう、169年 - 225年)は、中国、後漢末から三国時代に丁原、何進、董卓、呂布、魏に仕えた武将。字は文遠。雁門郡馬邑県の出身。子は張虎、兄に張汎をもつ。

前漢の聶壱(じょういつ)の子孫にあたるが、聶壱が匈奴との交易を利用して騙し討ちをしたことから一族全体が匈奴の恨みを買っており、復讐を避けるため姓を「張」に改めた。

武勇に優れていたことを丁原に見出され、その家臣となった。後に丁原の命で洛陽に上り、そこで当時大将軍だった何進に仕えることとなる。何進の命を受けて河北に赴き、そこで傭兵を募って都に帰還したが、そのとき何進はすでに宦官に殺されていたため、その後に実権を掌握した董卓の家臣となる。董卓死後は呂布の家臣となった。

呂布の死後、曹操の家臣となり、徐州での戦いで劉備軍と孤立し自害しようとした関羽を説得させ、曹操の客将とさせた。200年の官渡の戦いでは、当時曹操の客将となっていた関羽と共に先鋒を務め、敵将であった顔良を討ち取り、劉備の元へ帰る関羽を見送りに行ったりと関羽とは敵ながらも親交があった。208年の赤壁の戦い後は、合肥に駐屯して楽進や李典と共に呉の侵攻を度々防いだ。

215年に孫権が10万の大軍を率いて押し寄せるが、曹操が残した策により李典とともにわずか800騎の精兵を率いて出陣し、呉軍の出鼻を挫く。この際に配下の兵が呉軍に追いつめられているのを見て、逆に単身で助けにいったと言われている。その後も堅く守り、結局20日にも及ぶ呉軍の攻勢を凌ぎ、敵が兵を引くとこれを追撃し、孫権をあと一歩のところまで追い詰め、心胆を寒からしめた。この張遼の武勇は江南にも広く轟き、「遼来来(張遼が来るぞ)」とその名を聞けば泣く子も黙ると大いに恐れられた。孫権もまた、張遼がいる限り合肥は奪えぬ、と嘆いたという。

張遼(・∀・)カコイイ!!



2月19日(日)02:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | (゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚) | 管理

島 左近

島 左近(しま さこん、1540年6月9日(天文9年5月5日)? - 1600年10月21日(慶長5年9月15日)?)は、安土桃山時代の武将で石田三成の家臣(軍師)。名は勝猛(かつたけ)・清興(きよおき)とも。娘(珠)は柳生利巌の妻で、剣豪として名高い柳生厳包は外孫にあたる。

出身は対馬、もしくは畿内だと言われるが詳しくは不明(近年では「島左近」は筒井氏家臣である島氏代々の名乗りで勝猛(清興)以前にも「島左近」を名乗る者がいたという説もある)。はじめ筒井順慶の侍大将として仕え、松倉重信(右近)と並んで筒井氏の両翼と目され、「右近左近」と称された。順慶没後、後を継いだ筒井定次と意見が合わず、筒井氏を去って羽柴秀長・豊臣秀保らに仕えた後、浪人となって近江に隠棲する。その頃、近江の領主となった石田三成から、左近に仕官の要請があった。それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断るが、三成の必死の説得により仕官を受け入れ、1万5千石の俸禄で召し抱えられた。これは、当時の三成の禄高4万石のうちの4割近くを与えられるという破格の待遇であった。

1598年、豊臣秀吉が没して、徳川家康が権力を振りかざすようになると、それを危険に感じた左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけるが、大義名分にこだわる三成はそれを受け入れなかった。

1600年の関ヶ原の戦いの前日には、家康到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵五百を率いて東軍側に小競り合いを挑み(杭瀬川の戦い)、見事な策を用いて完勝した。しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、またもや三成に受け入れられずに終わった。関ヶ原の戦い本戦においては、最初は有利に戦うものの、小早川秀秋の寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなった。左近は討ち死にを覚悟し、正面の田中吉政・黒田長政らの軍に突撃し、奮戦した末に討ち死にした。

関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し1632年(寛永9年)に没したとする説もある。この説は関ヶ原の合戦で戦死した西軍大将として大谷吉継と共に首が見つかっておらず(大谷吉継の場合は側近が切腹の介錯を行い、首級にされないように地中深くに埋められた為見つからなかった)、更には合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだためとされているが、今となっては真相は不明。

(´ι _`  ) あっそ



2月19日(日)02:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | (゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚) | 管理


(1/1ページ)